今週『三四郎』という小説を読み始め、まだ第一章しか済まないが、面白いと思います。外国文学を読んでいるところで、文化の違いだけではなく、時代の違いも感じられます。お灸の跡があるお爺さんのこととか、まだ広がってない電気のある旅館が高そうという三四郎の意見とか、もう卒業したという意味を持っている 徽章をもぎ取られた帽子など、他の世界かのようなディテイルが次々に出ます。それからそのような細かいことを考えている間に、時々両方の文化・言語・歴史などについての何かがよりもはっきりになります、あるいは分かると思ったことがどんどん不思議になります。
三四郎が風呂に入っていると、電車で会った女の人は便所で顔や手を洗い風呂に入ろうとした。すると、「ちいと流しましょうか」と尋ねました。まずちょっと変な言い方と思ったが、なんとか水のことと関係あるコメントではないかと思いました。しかし、英訳を見ると、「Want me to scrub your back?」が書いてあり、びっくりしました。「流す」を辞書で調べると、確かに「水で汚れを洗い落とす」という意味がありますが、欧米文化のシャワーの慣習と全然違うなので、そのような解釈は言葉がよりも直接に表されないと私が掴めないかもしれません。
そのちび文のせいで悩んで、馬鹿ぐらいに考えていた。日本人は一般的にその解釈がすぐ気づくんだか、親戚や親友と家の風呂や温泉でそのような経験が小さい時からかなりあるのでもう慣れていて そのような言葉はどうやって解釈するか・反応するかというのを身についといてるか、などのような考えが次々に浮かびました。とはいえ、他の場合と同じくこの結論に着きました:実はそんなに妙なことではないねえ。なぜなら、どんな言語でも、どんな文化でも 一緒に生活している人々は経験を重ねてきて、それで思わず反応できる慣習が立っているのですね。私の母語である英語・スペイン語でも同じでしょう。もう慣れているから、容易に気づくことができないだけでしょうね。
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坊ちゃんは明治時代に書かれたので日本人でも戸惑う表現がありますよ。そして、英米文学を読むと私達も自分たちの文化と違うことに戸惑うことがあります。It's vice versa と、言うことですね。
その頃は「流す」だけで通じたのでしょうが、今は「背中を」をつけて「背中を流しましょうか?」と言わないと通じないでしょうね。また、銭湯などでお互いに背中を流し合うような行為自体が珍しくなっていると思います。
『三四郎』は私は読んでいないのですが、面白そうですね。漱石だと私は『夢十夜』が大好きです。
コメントをありがとうございました。そうですね。昔の小説なので、現在の日本人にもちゃんと通じない部分がありますね。
@Akiko さん、『夢十夜』は素敵ですね。私は漱石の作品が好きになってきて、できればあちこち読み続けたいです。